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DonKiのブログ

人の日記を覗きにきたドスケベのみなさま、どうぞごゆるりとしていってくださいませ。

コーヒーは泥水なのか?

コーヒー

コーヒーは泥水なのか?

これは僕が優雅にコーヒーを飲んでいる時にふと降ってきた疑問です。ネットを見ると、コーヒーを飲めない人が「泥水」と喩えていました。その言葉を目にしたときは「コーヒー飲めないお子ちゃまワロタwww」くらいにしか思いませんでした。結構煽っていますね。

 

確かに泥水はコーヒーっぽい。しかし泥水とコーヒーの味は確実に違います。僕は中学生の時に走り幅跳びの着地に失敗したときに砂場の砂利をこれでもかと食らいました。口の中はじゃりじゃりで、急いで水道で口をすすぎました。結論から言うと泥水は無味。それに砂利は最悪の食感でいつまでも口に残るという最悪の代物です。

 

ですからコーヒーは決して泥水ではありません。コーヒー=苦い=泥水と喩えてしまった方が泥水の地獄をきっと知らないのでしょう。あるいはコーヒーを飲むことは泥水を飲むような地獄と喩えたかったのでしょうか。そこまでコーヒーを嫌うのは前世がコーヒー農家で圧政で大量のコーヒー豆を生産しなければならず多忙で死んだボリビアあたりの人なんでしょう。それなら理解できます。

 

そこで僕はコーヒーを異常なまでに嫌う人の気持ちになってコーヒーを飲むとどうなるのか?コーヒーは本当は泥水なのではないか?と疑問を持つようになりました。確かに上から目線でコーヒーを飲めない人を蔑むのは簡単。「お子ちゃまワロタwww」で済みますからね。ですが苦手な人の気持ちになることは容易ではありません。だから苦手な人の気持ちになろうと思ったのです。以下はそのときの様子を下手な小説もどきで描いてみました。

 

朝食時、いつものようにトースターでパンを焼き、皿に盛り付ける。熱々のパンにバターを塗りじっくりと溶けるのを愉しむ。ネスプレッソにヴィヴァルト・ルンゴのカプセルを入れエスプレッソのボタンを押す。マシンは気圧でコーヒーを排出するため、轟音を響かせる。この時間がまた良い。一瞬の轟音が鳴り止み目の前のコーヒーカップには綺麗に泡が乗っており、湯気が上り、コーヒーの香りが脳を循環する。右手にパンの乗った皿を持ち、左手にコーヒーカップを持ちテーブルへと向かう。ソファに座りしばしの沈黙。これから朝食を摂るのだ。食事という神聖な儀式の大切さを胸に刻み、いざ実食。まずは長い睡眠で乾いた喉を潤すためにコーヒーカップに手を伸ばす。一口飲めば喉は砂漠からオアシスへと変貌する。それを期待して人は水分を摂取する。その水分に味を付け、人は満足する。それが朝食時のコーヒーだ。よし、飲もう。そう意気込み一口飲んだ。「!?」という衝撃が脳を過ぎった。「なんだこの苦い液体は!」思わず怒った。そして「こんな物を朝の貴重な時間に飲ませんじゃねえ!」と激昂した。今まで自分が飲んでいたコーヒーという代物は喉を潤すものじゃない。味覚を殺す悪魔の液体だ。青春時代はコーヒーなど飲んでいなかったじゃないか。毎朝牛乳だったじゃないか。それがいつしか青春を忘れ悪魔に魂を売り、毒を摂取していたとは。それは大人らしく見せるという欺瞞が心を殺し、他者を侮蔑するためにコーヒーを飲んでいたとは。コーヒーなど飲み物ではない。悪魔により姿を変えた泥水だ!

 

いかがでしたでしょうか。僕がコーヒーを飲み始めた理由が「大人になりたい」というちっぽけなものだと気付かされました。思えば中学生のとき、友達に見栄を張るためについた嘘が事の発端でした。コーヒーを飲めない人を馬鹿にするために呑み始めたという不純さ。さながら不良少年のようでした。皆さんも誰かを馬鹿にしたいがためにはじめ、それが習慣として身についてしまったことはありませんか? 是非探してみてください。