JackRussellのブログ

人の日記を覗きにきたドスケベのみなさま、どうぞごゆるりとしていってくださいませ。

『けものフレンズ』は悪魔の産物なのかもしれない

最近やけに『けものフレンズ』なるものを目にする。どうやらアニメ作品らしい。僕は普段アニメを見ないでスルーするつもりでいた。しかし、どうも周りが騒がしい。幼稚化しているのだ。稚拙な表現でアニメを伝え、幼稚化を伝染させている。

 

僕はこの手の媒介法が苦手である。ツイッターでよくある「○○はいいぞ」とか「控えめに言って最高」というワードがどうも苦手である。おそらく誰かが言った言葉に汎用性があるから伝染していったのだと思うが、そのコピーアンドペースト感が僕にはダメなのだ。

 

どうやら『けものフレンズ』にもコピーアンドペースト現象が起こっているらしい。少し調べてみたところ「すごーい!」「たっのしー!」が流行っているらしい。もはや地獄である。幼稚化した知能をひけらかし、その自由奔放さは迷える人々を引き込み、人心を誑かしているのだ。もちろん悪魔の囁きに耳を傾けた者はあらゆる事象に「すごーい!」「たっのしー!」とばかり言うことになる。

 

なぜ僕がこの手の引き込みが苦手か。かつて『キルミーベイベー』というアニメが存在した。僕はその頃あんぽんたんだった。つまり疑うことを知らない純朴少年だったのだ。僕はアニメ好きの友人に言われるがまま『キルミーベイベー』を視聴した。最初は「なんだこのアニメは」とうんざりした。こんなしょうもない作品を薦める友人は罠を仕掛けてきたのかと疑った。

 

僕は怒りを友人にぶつけた。しかし、友人は飄々としたままである。この時点で友人がキルミー沼になっていることに気付くべきであった。

 

「ずっと見てればいいんだよ」

 

その一言を僕は信じてしまった。そして、僕もキルミー沼にハマってしまった。次話に進むたびに知能が幼稚化していく。理性の反抗も虚しく、脳は自然と快楽を覚えるようになり、常に見ていないと禁断症状が発生した。脳内麻薬は快楽を求め日常のあらゆるものを捨てさせる。そしてこの快楽を共有しようとする。僕はあらゆる人に『キルミーベイベー』を薦めまくった。そして何人かの患者を作ってしまった。申し訳ない。

 

悪口はあまり言いたくないが『キルミーベイベー』はクソ、特に牛の下痢便に近い作品である。僕がキルミー沼から抜け出せたのは『ショーシャンクの空に』という超名作映画を観たからだ。劇中、主人公は様々な困難に苛まれ、絶望すら覚えるが、希望を忘れることはなかった。最後に「救いはこの中にありました」という言葉があるが、そのときに我に返った。僕にとって救いはこの映画の中にあった。こんな素晴らしい作品が存在していることを知らなかった自分が恥ずかしくなった。

 

そして「キルミー=牛の下痢便」の方程式が脳裏に浮かんだ。僕は自分の愚かしさに気がつき、沼からの脱出に成功したのだ。それから僕は二度とその手の罠にはまってたまるかと抵抗を続けている。

 

そして今回新たに『けものフレンズ』が襲来してきたのだ。ツイッターには既に多くの患者がいる。脳内麻薬の分泌を抑えられず思わずツイートしてしまう迷える子羊たち。僕はそれを尻目に見て悲哀を覚えるのである。「すごーい!」「たっのしー!」は、麻薬の売人による「気持ちよくなるよ」と同等だ。あるいは、糖質の過剰摂取による脳内麻薬の過剰分泌により引き起こされる糖質依存に似ている。

 

「ネタでやってるだけだからw」と思っている人がいることだろう。僕もキルミーに没頭していた時はそうだった。あくまで「ネタ」としてやっていた。しかし、気がつけば「ネタ」ではなくなっていた。MGS3のザ・ボスの「長く自分を偽ると侵食される。常に自分を見失わない事だ」という名言をご存じだろうか? まさにその通りで、侵食されると自身の喪失に気付かないままでいる。だからどうか「ネタ」のつもりで自分を偽るのをやめてほしい。

 

いろいろ『けものフレンズ』を調べてみたところ、やはり楽しそうな雰囲気は否めない。これは一歩間違えたら取り込まれてしまいそうな邪念を感じる。多くの視聴者も最初は戸惑ったことだろう。しかし、一定のコミュニティが形成されると、残された人は集団へ羨望を覚える。次話へと進むたび次第にコミュニティに順化していく感覚。この快感を一度経験したら抜け出しづらい。だからどうか中毒患者になるのではなく、真に作品に向き合ってほしい。そうすれば正確に良さを伝えることができるだろう。

 

いや、まさか、正確に良さを伝えようとすると「すごーい!」「たっのしー!」に回帰するのか? もはや『けものフレンズ』は観測不可能に近い作品なのではないか? キルミーはしょうもない作品だったが、これは実際どうなのだろうか。もしかしたら大自然を擬人化することで身近さを演出し、自然界へと関心を向ける良質な作品なのかもしれない。

 

だから僕は『けものフレンズ』を視聴することにした。果たしてこの作品は僕をまた沼へと引き込むのか、新たな知見を得させるものなのか。僕は『けものフレンズ』の視聴レビューを書いてみようと思う。僕は『けものフレンズ』の良さを最大限見つけていきたい。

コミュ力が最底辺の人間

僕のコミュ力は著しく低い。それはもう最底辺と言っても差し支えはない。日常で生活するのも困難なくらいだ。今回のエントリーでは、そんなコミュ力が最底辺の僕の生活を一部紹介したいと思う。

 

1.目を見て話せない

これは僕が中学生時代の思い出だが、入部届を出しに顧問まで尋ねたところ、顧問の声のトーンが異常に低かった。まるで何かに怒りを抱いているような雰囲気であった。僕は奥さんと揉めたんだろうなあぐらいにしか思わなかった。入部届を出し終え、いざ自分の教室に戻ろうと踵を返したとき、「てめぇ!」という怒号が後ろから聞こえた。僕は「!?」となり、反射的に振り向いた。するとそこには明らかに僕に対して怨恨の念を抱いている鬼の顔があった。なぜ僕はこんな恐ろしい顔を向けられなければならないのか。疑問でいっぱいだったが、疑問を解消させてくれる間もなく、「悪いこともしてねえのになんで目を合わして離さねえんだよ!馬鹿者!」と怒鳴られたのだ。僕は「はあ!?喚いてんじゃねえぞハゲ!」と心の中の不良が抵抗した。実際に顧問はハゲていた。しかし実際の顔は引きつって今にも泣きそうな顔をしていた。

 

それから僕は人と話す機会があるたびに「目を見て話さなきゃ怒鳴られる……」と思うようになり、義務感で目を合わして話していたが、義務に疲れて余計に目を合わせられなくなってしまった。するとどうだろう、瞬く間にコミュ力が落ちる落ちる。どうやら目を見て話すことは自信へと繋がっているらしい。僕のメンタルは底まで落ち、自信は完全にゼロと化した。気の利いたジョークなんて言えない。甘い口説き文句も言えない。出てくるワードはマイナスなことばかり。結果、自然と人は離れていく。同時に人と接する機会が極端に減る。そうなると完全に人が怖くなり、会話すら困難になる。コミュ力は目を合わせることから始まる。

 

2.電話が恐ろしい

これは過去のトラウマが原因であることが分かっている。高校時代、僕は予備校に通わず、一人で受験勉強していた。中学時代に塾に通ってくせに大失敗したので、親に迷惑はかけられないと思い、一人で勉強することを選んだのだ。地獄への誘いは一本の電話から始まった。その電話が来る前は、電話に対してさほど恐怖心を抱いていなかった。顔が見えていない相手だから気が楽だったのだ。

 

その電話は、受験勉強を通信学習のような宣伝の電話だった。この手の電話はしょっちゅう来ていた。来るたびに断っていたので慣れっこだった。僕はいつものように断ろうといつも決めていた台詞を言い電話を切ろうとしたとき、「ちょっと待って!」と相手が言ったのである。ちょっと待ってあげた。するとまくし立てるように「一人で受験なんて無理」「ウチならどこにも受かる」「正直君頭悪いでしょ。今すぐ君の家に行って話をさせて」と言ってきたのである。僕は頭の中が「え?え?え?」と追いついていなく、ひたすら「はい」を連呼していた。そのため、名前すら知らない通信学習の業者が家に来ることになったのだ。

 

ここまで来たら断れない。僕をせめてもの抵抗で、親に電話を代わった。さすがは親だった。うまく相手をいなして話はチャラになった。僕は一安心したが、親からはこっぴどく叱られた。明らかに悪いのは僕の弱みにつけ込んで売り込もうとする業者だ。且つ僕はまだぺーぺーの高校生だ。そんな大人の世界なんて分かるわけがない。僕はそれから電話に対して恐怖心を抱くようになった。ほとんどの電話が悪い人ではないとは分かっているが、怖いのである。電話に出ることは極端に控えるようになったのだ。

 

美容院の予約をするのも歯医者の予約をするのも、マニュアルを最低は一週間かけて作成し、頭にたたき込んでシミュレーションをしないと電話ができない。もちろん自然な会話ができないからちぐはぐになる。コミュ力という言葉がやけに遠のいた。

 

3.世間話ができない

世間話なんて無理ゲーである。美容院での会話なんてどうすればいいのか分からない。この前は「眼鏡かけてますか?」と聞かれ「家でだけですけどね」と訳の分からない返答をしてしまったのだ。相手の美容師の顔には「?」という言葉が浮かんでいた。会話することに精一杯でコンテクストが理解できず、「はい」すら言えなくなってしまう。

 

「天気がいいですね」というワードはコミュ障を殺す究極の兵器だと思う。まず天気がいいからなんなのか。こちらも「天気がいいですね」と答えればいいのだろうか。デモそれだとオウムみたいで気持ちが悪いだろう。では、「はい、一点の曇りもない素晴らしい天気で、すがすがしい気分になりますね。さわやかだなあ!」と言えばいいのだろうか。まず無理な話である。「はい」で終わるのも気持ちが悪い。そんなことを短い時間に考えるから頭がパンクして訳の分からないことを言ってしまうのだろう。

 

そしてうまく会話ができなかった後の一人反省会が虚しい。「ああ言えば良かった」と後悔しても意味がない。これは自分でも気持ちが悪いと思うのだが、僕がぼそっと言ったことがウケた時、表情には出さないが心の中は笑顔がはじけているのである。一人反省会で、ウケた台詞をぶつぶつ独り言で言うのである。最高に気持ちが悪い。

 

コミュ力が最底辺の人間の一部を覗き込んで、どうでしたか。これは多くの人には理解できないことだと思う。どうも自分がかわいいのか一歩踏み出せないでいる。ここから踏み出せる方法があるのならば、どうか教えてください。

チョコミントアイス嫌いよ、チョコミントは歯磨き粉味じゃない

僕はチョコミントアイスが大好きだ。チョコミントアイスを前にしたらどんな高級なお菓子も灰燼と化すほどだ。それくらい僕はチョコミントアイスを愛している。しかし残念かな世の中には憎っくきアンチチョコミントの存在がある。その人たちの主張は主にこうだ。

 

「チョコミントって歯磨き粉味じゃん」

 

チョコミントの話題になると決まって歯磨き粉味と言わなければ死んでしまう病の患者が多い。今回はそんなアンチチョコミントの意見を覆すエントリーだ。

 

まず、なぜチョコミントが歯磨き粉と呼ばれなければならないのか。それは至って簡単。歯磨き粉を口に放り込むとスースーするからである。歯磨き粉にミントが入っているのか知らないが、歯磨き粉にはミントが入っていると思われているようだ。たったそんな理由でチョコミントは歯磨き粉と呼ばれている。なんとも嘆かわしい。

 

では、歯磨き粉にチョコや砂糖、ミルクは入っているのか? 答えは簡単。入っているはずがない。そんな事をしたら歯周病患者が増えて訴えられるだけだ。だから、そもそもチョコミントは歯磨き粉というのは視野が狭い。チョコの部分を度外視してはいけない。さらに同じスースーならガムはどうなんだ。あっちは特に何も言われていないではないか。どちらかというとガムのほうが歯磨き粉に近い。しかもそういうスースーするガムに限っておいしくもなんともない。人工甘味料のような味がうっすらとするだけでどちらかと言えば不味い。それなのにガムはなにも蔑まれる事もなく安地に居座っている。これは許しがたいことだ。

 

しかし、今回の相手はガムじゃない。アンチチョコミントだ。ミントという所だけを見て「歯磨き粉味」という蔑称を付けている。さらにやっかいなのは、こちらがいかにチョコミントのおいしさを伝えようとしても「でもさ、歯磨き小味じゃんw」の一言で全てを破綻させようとする。あまりにも安易すぎる。僕は荒波の中でもチョコミントの素晴らしさを伝えたい。

 

まず、チョコミントアイスという響きから、その成分がチョコとミントだけに限定されていると思われるのだろう。しかし実際は違う。チョコミントという名前に至るまでの過程にはそもそもアイスがなければならない。つまりチョコ+ミント+アイスの黄金比を見つけなければバランスを崩しどっちつかずになってしまう。チョコミントアイスはデリケートは食べ物なのだ。ミントが強すぎればスースーする代物に、チョコが強ければチョコだけで良くなってしまい、アイスが強ければ、バニラ食ってろとなってしまう。ミントの清涼感、チョコのパリパリ感、アイスのほどよい甘さがマッチしていなければ成立しない。

 

それを安易に「歯磨き粉味」と決めつけるのはあまりにも愚かしいのではないか? そもそもアイスを作るのですら大変なのに、そこにチョコとミントをバランス良く配合することの手間の多さに感動すら覚える。これはあんこ職人とよく似ている。小豆をただ茹でて砂糖を加えるだけではない。長時間小豆を茹で、よくチェックし差し水をし、水と小豆のバランスをキープし、塩を投入し、砂糖を入れ煮る。こうしてあんこは生まれる。さらにこしあんにするには手間をかけて漉す作業を必要とする。僕は職人が手間をかけて作ったこしあんが好きだ。なぜならそこにはストーリーがあるからだ。チョコミントアイスにも同じだ。チョコ、ミント、アイスの黄金比を見極め、バランスを保つには相当の苦労がある。僕はストーリーがある食べ物が好きなのだ。

 

チョコミントアイスを夏場に食べればアイスのおいしさにまず感動できるし、冷たくてぱりぱりしたチョコで甘さを補給できるし、ミントの清涼感ですっきりできる。夏場には一石三鳥のアイスなのである。さらに冬場にも最適だ。冬場はこってりしたものを食べがち、そこでチョコミントアイスの存在が欠かせない。冷えているから甘さが控えめのように感じるさっぱりしてるから冬の食物事情にはもってこいである。

 

残念ながらチョコミントアイスはそこまで市民権を得ていないのか、通年で売られるケースはほぼ皆無だ。通年売られている場所があれば教えて欲しい。そこに移住したい。

 

チョコミントアイスの素晴らしさが分かっただろうか。僕の文章力が乏しいのでこのくらいしか書けないが、必死さは伝わっただろう。「歯磨き粉味」という貶しがどうしても許せず書いてしまった。これからもチョコミントアイスの素晴らしさを伝えていきたい。

コーヒーは泥水なのか?

コーヒーは泥水なのか?

これは僕が優雅にコーヒーを飲んでいる時にふと降ってきた疑問です。ネットを見ると、コーヒーを飲めない人が「泥水」と喩えていました。その言葉を目にしたときは「コーヒー飲めないお子ちゃまワロタwww」くらいにしか思いませんでした。結構煽っていますね。

 

確かに泥水はコーヒーっぽい。しかし泥水とコーヒーの味は確実に違います。僕は中学生の時に走り幅跳びの着地に失敗したときに砂場の砂利をこれでもかと食らいました。口の中はじゃりじゃりで、急いで水道で口をすすぎました。結論から言うと泥水は無味。それに砂利は最悪の食感でいつまでも口に残るという最悪の代物です。

 

ですからコーヒーは決して泥水ではありません。コーヒー=苦い=泥水と喩えてしまった方が泥水の地獄をきっと知らないのでしょう。あるいはコーヒーを飲むことは泥水を飲むような地獄と喩えたかったのでしょうか。そこまでコーヒーを嫌うのは前世がコーヒー農家で圧政で大量のコーヒー豆を生産しなければならず多忙で死んだボリビアあたりの人なんでしょう。それなら理解できます。

 

そこで僕はコーヒーを異常なまでに嫌う人の気持ちになってコーヒーを飲むとどうなるのか?コーヒーは本当は泥水なのではないか?と疑問を持つようになりました。確かに上から目線でコーヒーを飲めない人を蔑むのは簡単。「お子ちゃまワロタwww」で済みますからね。ですが苦手な人の気持ちになることは容易ではありません。だから苦手な人の気持ちになろうと思ったのです。以下はそのときの様子を下手な小説もどきで描いてみました。

 

朝食時、いつものようにトースターでパンを焼き、皿に盛り付ける。熱々のパンにバターを塗りじっくりと溶けるのを愉しむ。ネスプレッソにヴィヴァルト・ルンゴのカプセルを入れエスプレッソのボタンを押す。マシンは気圧でコーヒーを排出するため、轟音を響かせる。この時間がまた良い。一瞬の轟音が鳴り止み目の前のコーヒーカップには綺麗に泡が乗っており、湯気が上り、コーヒーの香りが脳を循環する。右手にパンの乗った皿を持ち、左手にコーヒーカップを持ちテーブルへと向かう。ソファに座りしばしの沈黙。これから朝食を摂るのだ。食事という神聖な儀式の大切さを胸に刻み、いざ実食。まずは長い睡眠で乾いた喉を潤すためにコーヒーカップに手を伸ばす。一口飲めば喉は砂漠からオアシスへと変貌する。それを期待して人は水分を摂取する。その水分に味を付け、人は満足する。それが朝食時のコーヒーだ。よし、飲もう。そう意気込み一口飲んだ。「!?」という衝撃が脳を過ぎった。「なんだこの苦い液体は!」思わず怒った。そして「こんな物を朝の貴重な時間に飲ませんじゃねえ!」と激昂した。今まで自分が飲んでいたコーヒーという代物は喉を潤すものじゃない。味覚を殺す悪魔の液体だ。青春時代はコーヒーなど飲んでいなかったじゃないか。毎朝牛乳だったじゃないか。それがいつしか青春を忘れ悪魔に魂を売り、毒を摂取していたとは。それは大人らしく見せるという欺瞞が心を殺し、他者を侮蔑するためにコーヒーを飲んでいたとは。コーヒーなど飲み物ではない。悪魔により姿を変えた泥水だ!

 

いかがでしたでしょうか。僕がコーヒーを飲み始めた理由が「大人になりたい」というちっぽけなものだと気付かされました。思えば中学生のとき、友達に見栄を張るためについた嘘が事の発端でした。コーヒーを飲めない人を馬鹿にするために呑み始めたという不純さ。さながら不良少年のようでした。皆さんも誰かを馬鹿にしたいがためにはじめ、それが習慣として身についてしまったことはありませんか? 是非探してみてください。

引きこもりがジョギングをしたら5分しか走れなかった

こんばんは。

 

最近ジョギングを始めたということは前のエントリーで書きましたが、意外と続いています。今後も続けられるように頑張りたいと思います。

 

さて、続いてるとは言えまだまだ初歩中の初歩です。ですからすぐバテます。5分ぐらいしか走れません。もともと体力には全然自信がなく、中高でも体力は最下位近くで、「走れない豚」の異名を持っていました。それにしても全然活動してくれない肺と足に驚きました。中高生時代より体力がないのではないかと思います。

 

走り始めて2分後に足が痛くなり、4分後には肺がまともに機能してくれません。引きこもってぶくぶく肥えた腹に落ちに落ちた体力に怒りすらも感じます。なぜ今までサボっていたのか…。実は引きこもり中も筋トレだけは毎日10分程度はしていたのですが、効果はいまいちでぽっこりお腹は全く解消されませんでした。目標はブルースリーでしたが、足下にも及びませんでした。そしてジョギング前はよくお腹をさすったりしていたのですがそれも効果なし。なんだかんだあってランニングを始めました。

 

ジョギングをしようと決心した日、まず家を出てすぐ走り出したところ左足に激痛が。思わず「おうふ…!」と声を漏らしてしまいました。それからゆったりと歩いているのか走っているのか分からないペースで走ってみたところそこそこ走れるように。ですが、5分と持たずにダウン。走ってる姿は相当醜かったと思います。

 

今後は10分、20分と走れるようになって、いつかフルマラソンを走れるようになりたいです。長く走れるコツがあれば教えてください。