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DonKiのブログ

人の日記を覗きにきたドスケベのみなさま、どうぞごゆるりとしていってくださいませ。

バレンタインデーとホワイトデーの煌びやかで儚い記憶

ここ二日三日、とあるエントリーを書くのにだいぶ疲れて寝ることすらままならない状況であった。申し訳ない、嘘をついた。昨日はがっつり9時間は眠った。そのエントリーとは以下のものだ。いかに僕が猛烈に清水富美加が大好きであるかが書かれている。全く読まなくてもいい。でも実は読んでほしい。もっといえばスターなんかくれちゃった日にはとても喜ぶ。だからスターをくだせえ。

 

donki.hatenadiary.com

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改めて読んでみると、何をアホなくせに真剣に文章書いてんだろうと思う。僕みたいな知能がフジツボ以下の人間は、もっとぱっぱらぱーでいいのだ。だから今回のエントリーではぱっぱらぱーなことを書こうと思う。

 

さて、今日はバレンタインデーである。僕には無縁のイベントだ。無縁のイベントがやってきたとき、僕はどうしても斜に構えてしまう。「元々日本の文化じゃないから僕には関係ないんだからね!」と言ってしまう。しかしそれは本心ではない。本当はチョコを何十個も欲しい。モテモテになりたい。頬を赤らめた女の子が、恥ずかしそうに小さい声で「あの…これ…」と言ってチョコを渡されたいのだ。そんな演出なら僕は何回でも受け取る。

 

ではもう一生無縁なイベントなのか? このまま忘却の彼方に忘れ、下卑ることしかできないのか? 僕は絶望を覚えた。しかし一筋の光が闇からの救いの手を差し伸ばした。それは僕が小学生の頃の記憶だ。僕は一度だけ、たった一度だけチョコをもらったことがあるのだ。

 

しかも相手は僕が密かに片思いを抱いていた女の子からだった。その女の子は超絶美少女で、男子の誰もが話しかけるのに緊張していた人だった。犬のウンコを手づかみで握りつぶすという芸当を魅せた横溝くんは何事もなく接していた。

 

僕の顔面は正直褒められたものではない。小学生の頃のあだ名は「萎んだ風船」だった。ものすごく情けない顔しているのだ。そんな僕がチョコを貰える機会に出くわした。だからものすごく喜んだ。義理とか本命とかそんなの関係なく純粋にうれしかった。

 

貰ったチョコを片手に僕はスキップをしながら帰宅した。チョコを貰ったことは親に告げずに黙っていた。これは僕だけの秘密だ。何人にも言わない。ゆっくりと舌で転がしじっくり溶ける様を愉しみながら独りで食すんだ。るんるん気分で絶望的に気持ちが悪いことを想像していた。

 

貰ったチョコはどこにでも売っているような代物だった。味は可もなく不可もない。しかし、僕には極上の味だった。大好きな女の子から貰ったチョコが不味いはずがない。このときから、食事に求めるべき最高のスパイスは「ストーリー」だと思っている。ストーリーがあればどんな料理でもそのストーリーを享受するものにはこの上ない料理となる。

 

僕は涙を流した。そして心の中に閉じ込めていた自分を解放して、快哉を叫んだ。なんて言ったかは覚えていない。とにかく煌びやかなひとときを僕は味わうことができた。

 

それから1ヶ月が経ち、ホワイトデーの日を迎えた。僕は1ヶ月の間必死で貯めたお小遣い(カードゲームに散財していなければもっと貯まっていた)を片手に握りしめ、近所のケーキ屋さんに向かった。僕は「フィナンシェ」を選んだ。「フィナンシェ」という名前がなんとなくクールだったからだ。3個で500円くらいだった。当時の僕からしてみれば大金だ。僕はとてもバカなので、1万円あれば学校を征服できるものだと思っていた。本当にバカだ。

 

僕はチョコをくれた女の子の家を知らなかった。だからその子の友だちからこっそり聞き出した。チョコを貰ったという事実を知られるのが嫌だったため、「親が渡したいプリントがあるから」と、嘘を言ったらすぐに教えてくれた。子どもにとって親を話題に出すのは大変有用だ。悪口を言うのにも自慢をするのにも使える。

 

そして僕はその女の子の家の前に着いた。インターホンが目の前にある。これを押して女の子を呼び出すだけだ。しかし、それができない。目を合わしたときどうすればいいのか、渡すときに手に触れたらどうしよう、何も話せなかったらどうしようとあれこれ考えて、インターホンを押すどころではなかった。

 

門の前に立って15分くらい経っただろうか。女の子の玄関のドアが開いたのだ。突然のことに僕は内心あたふたした。僕は「え、うそ」と虚ろに言った。そして運悪く出てきたのはその子の親ではなく本人だった。「?」という顔で女の子はこちらを見てくる。僕の目には涙が溜まっていた。しかし涙を流すことを堪えて「これ!」とだけ言った。女の子はしばらく何のことか分からなかったようで、相変わらず「?」が浮かんでいた。しかしすぐ気付いたようで「!」という表情をした。「お返しくれるんだ」女の子はそう言った。僕は「へへへ」としか言えなかった。気持ちが悪い。

 

「ありがと。じゃあ、あたし塾行かなきゃいけないから、じゃあね」

 

非常にあっさりしたホワイトデーだった。既にどきどきは収まっており素に戻っていた。そし自宅に近づくにつれ、ふつふつと記憶が蘇り、「ありがと。ふふふ。ありがと、かぁ。へへへ、あたし塾行かなきゃいけないから、ほほほ」と呟いた。

 

家に着き、日常に戻った。いつものように風呂に入り、夕食を食べ、寝た。

 

その後、その女の子はすぐに外国に渡ってしまった。別れの言葉をかけることができなかった。チャンスはいくらでもあったのだろうが、僕は胸に閉じ込めたままだった。最後のお別れの会もありきたりなメッセージを書いて渡した。おそらく子供心ながらまた会えると思っていたのだろう。しかしあれから10年以上経っているが、一度も会っていない。同級生に会っても話題にすら上がらない。

 

もしかして最初から存在しなかったかもしれないあの美少女。もし存在するのならば、幸せな暮らしを送っていることを願う。

それでも僕が清水富美加のファンであり続ける理由

今朝の目覚めは最悪なものだった。それは清水富美加(以下ふみかす)が引退宣言を昨日したからだ。ふみかすは幸福の科学へ出家をした。洗礼名のようなものを与えられ、新たな人生をスタートしている。僕は寝覚めるとすぐにふみかすのツイッターアカウントを確認した。新たなツイートはない。新アカウントではたった3つしかツイートがないが、引退メッセージと相まって、相当追い込まれていたんだと思う。

 

僕はリビングへと向かい、おもむろにテレビを点けた。ちょうどフジテレビのバイキングが始まろうとしていた。当然のようにふみかす引退報道がトップに来た。僕は内心そわそわした。ただでさえ精神的に参ったふみかすにさらに追い打ちをかけるコメントばかりされるのではないか。そしてそれは現実化した。

 

司会者が烈火のごとくヒートアップしてふみかすを叩きまくる。司会者の男性は長い間芸能界で生活をしていたため、ふみかすの芸能人としての身勝手さが逆鱗に触れたのだろう。確かに、スケジュールが組まれ多くの人間が関わっている中、突然の離脱は正解とは言えない。

 

しかし、それを人生の選択だと思えば、重要な決断だ。どれだけ追い込まれていたかは第三者から観測することはできないが、明らかに破滅に近い人間の究極の選択肢をまずは認めることが大事なのではないか。そこに追い打ちをかける必要があったのだろうか。

 

では、無理して仕事を続け、それでも耐えきれずに自殺をしてしまった場合、あの司会者はどのような反応をしたのだろうか。まあ司会者を批判したところでどうにかなる話ではない。今回のエントリーは僕がふみかすファンを続けていく理由についてだ。

 

さて、前のエントリーに書いたが、僕が今まで見てきたふみかすはどこにも存在しない。ふみかすは幸福の科学に出家して「神のために生きる」ことを決断した。多くのファンが宗教への道に困惑を抱いたことだろう。いくらこの国で信教の自由が認められているとはいえ、宗教と縁遠い日本では受け入れられづらい。それに幸福の科学という新興宗教だ。古くからある宗教だから良い、悪いの問題ではないが、胡散臭さは否めない。少しだけ「エル・カンターレ」というものを調べてみたが、ちんぷんかんぷんだった。提示されている情報が何一つ理解できない。

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この宗教がらみのことで僕はかなり困惑した。「胡散臭い宗教に出家するくらいなら他に道がなかったのか」というのが頭に浮かんだ。しかしこれは、本人のことを考えているようで全く考えていない自分勝手な言い分だ。これはあの電通の女性社員が自殺をしたときにネットでよく言われた「自殺するくらいなら辞めちゃえばよかったのに」と同じで、もし自分が本人だったら、という当事者性を欠いた考えによるものだと改めた。

 

それから僕が至った答えは「生きていてくれてよかった」ということだ。追い詰められたゆえに自殺をしてしまったら何も残らない。人間死んでしまったら最後、伝えたいことを何も伝えられずに忘れ去られていくだけだ。それはあまりにも悲しい。幸い、ふみかすはツイッターで自身のことを発信していくそうなので、喜びもひとしおだ。

 

ファンにとっての正解とはなんだろうか。それは存在しないかもしれない。ファンという言葉ほど定義しづらいものはない。人々がファンになる理由はそれぞれで、必須条件をクリアしたらファンになれるなんてことはない。僕がふみかすを好きになった理由は、演技が上手くてかわいいという単純な理由だ。そこにふみかす自身の内面を考慮したことはなかった。変態仮面の時、僕はゲラゲラ笑った。しかしあの役を嫌々やっていたかもしれない。そうなら申し訳ない。

 

今回、ふみかすの決断を通して、僕は新たなふみかすのファンになろうと思った。今までのふみかすを忘れて、新生ふみかすを好きになろうじゃないか。どんどん受け入れていけばいいじゃないか。まだ事態は始まったばかりだ。今後どうなるかなんて明日に任してしまえばいい。明日のことは明日自身がどうにかしてくれる。だから、僕は清水富美加のファンであり続けようと思った。

 

これがファンとして正しいかは分からない。「本当のファン」というものがどういうものか、説明できる人などいないだろう。だから僕は僕の考え方でふみかすのファンであり続けたいと思う。

『けものフレンズ』は悪魔の産物なのかもしれない

最近やけに『けものフレンズ』なるものを目にする。どうやらアニメ作品らしい。僕は普段アニメを見ないでスルーするつもりでいた。しかし、どうも周りが騒がしい。幼稚化しているのだ。稚拙な表現でアニメを伝え、幼稚化を伝染させている。

 

僕はこの手の媒介法が苦手である。ツイッターでよくある「○○はいいぞ」とか「控えめに言って最高」というワードがどうも苦手である。おそらく誰かが言った言葉に汎用性があるから伝染していったのだと思うが、そのコピーアンドペースト感が僕にはダメなのだ。

 

どうやら『けものフレンズ』にもコピーアンドペースト現象が起こっているらしい。少し調べてみたところ「すごーい!」「たっのしー!」が流行っているらしい。もはや地獄である。幼稚化した知能をひけらかし、その自由奔放さは迷える人々を引き込み、人心を誑かしているのだ。もちろん悪魔の囁きに耳を傾けた者はあらゆる事象に「すごーい!」「たっのしー!」とばかり言うことになる。

 

なぜ僕がこの手の引き込みが苦手か。かつて『キルミーベイベー』というアニメが存在した。僕はその頃あんぽんたんだった。つまり疑うことを知らない純朴少年だったのだ。僕はアニメ好きの友人に言われるがまま『キルミーベイベー』を視聴した。最初は「なんだこのアニメは」とうんざりした。こんなしょうもない作品を薦める友人は罠を仕掛けてきたのかと疑った。

 

僕は怒りを友人にぶつけた。しかし、友人は飄々としたままである。この時点で友人がキルミー沼になっていることに気付くべきであった。

 

「ずっと見てればいいんだよ」

 

その一言を僕は信じてしまった。そして、僕もキルミー沼にハマってしまった。次話に進むたびに知能が幼稚化していく。理性の反抗も虚しく、脳は自然と快楽を覚えるようになり、常に見ていないと禁断症状が発生した。脳内麻薬は快楽を求め日常のあらゆるものを捨てさせる。そしてこの快楽を共有しようとする。僕はあらゆる人に『キルミーベイベー』を薦めまくった。そして何人かの患者を作ってしまった。申し訳ない。

 

悪口はあまり言いたくないが『キルミーベイベー』はクソ、特に牛の下痢便に近い作品である。僕がキルミー沼から抜け出せたのは『ショーシャンクの空に』という超名作映画を観たからだ。劇中、主人公は様々な困難に苛まれ、絶望すら覚えるが、希望を忘れることはなかった。最後に「救いはこの中にありました」という言葉があるが、そのときに我に返った。僕にとって救いはこの映画の中にあった。こんな素晴らしい作品が存在していることを知らなかった自分が恥ずかしくなった。

 

そして「キルミー=牛の下痢便」の方程式が脳裏に浮かんだ。僕は自分の愚かしさに気がつき、沼からの脱出に成功したのだ。それから僕は二度とその手の罠にはまってたまるかと抵抗を続けている。

 

そして今回新たに『けものフレンズ』が襲来してきたのだ。ツイッターには既に多くの患者がいる。脳内麻薬の分泌を抑えられず思わずツイートしてしまう迷える子羊たち。僕はそれを尻目に見て悲哀を覚えるのである。「すごーい!」「たっのしー!」は、麻薬の売人による「気持ちよくなるよ」と同等だ。あるいは、糖質の過剰摂取による脳内麻薬の過剰分泌により引き起こされる糖質依存に似ている。

 

「ネタでやってるだけだからw」と思っている人がいることだろう。僕もキルミーに没頭していた時はそうだった。あくまで「ネタ」としてやっていた。しかし、気がつけば「ネタ」ではなくなっていた。MGS3のザ・ボスの「長く自分を偽ると侵食される。常に自分を見失わない事だ」という名言をご存じだろうか? まさにその通りで、侵食されると自身の喪失に気付かないままでいる。だからどうか「ネタ」のつもりで自分を偽るのをやめてほしい。

 

いろいろ『けものフレンズ』を調べてみたところ、やはり楽しそうな雰囲気は否めない。これは一歩間違えたら取り込まれてしまいそうな邪念を感じる。多くの視聴者も最初は戸惑ったことだろう。しかし、一定のコミュニティが形成されると、残された人は集団へ羨望を覚える。次話へと進むたび次第にコミュニティに順化していく感覚。この快感を一度経験したら抜け出しづらい。だからどうか中毒患者になるのではなく、真に作品に向き合ってほしい。そうすれば正確に良さを伝えることができるだろう。

 

いや、まさか、正確に良さを伝えようとすると「すごーい!」「たっのしー!」に回帰するのか? もはや『けものフレンズ』は観測不可能に近い作品なのではないか? キルミーはしょうもない作品だったが、これは実際どうなのだろうか。もしかしたら大自然を擬人化することで身近さを演出し、自然界へと関心を向ける良質な作品なのかもしれない。

 

だから僕は『けものフレンズ』を視聴することにした。果たしてこの作品は僕をまた沼へと引き込むのか、新たな知見を得させるものなのか。僕は『けものフレンズ』の視聴レビューを書いてみようと思う。僕は『けものフレンズ』の良さを最大限見つけていきたい。

コミュ力が最底辺の人間

僕のコミュ力は著しく低い。それはもう最底辺と言っても差し支えはない。日常で生活するのも困難なくらいだ。今回のエントリーでは、そんなコミュ力が最底辺の僕の生活を一部紹介したいと思う。

 

1.目を見て話せない

これは僕が中学生時代の思い出だが、入部届を出しに顧問まで尋ねたところ、顧問の声のトーンが異常に低かった。まるで何かに怒りを抱いているような雰囲気であった。僕は奥さんと揉めたんだろうなあぐらいにしか思わなかった。入部届を出し終え、いざ自分の教室に戻ろうと踵を返したとき、「てめぇ!」という怒号が後ろから聞こえた。僕は「!?」となり、反射的に振り向いた。するとそこには明らかに僕に対して怨恨の念を抱いている鬼の顔があった。なぜ僕はこんな恐ろしい顔を向けられなければならないのか。疑問でいっぱいだったが、疑問を解消させてくれる間もなく、「悪いこともしてねえのになんで目を合わして離さねえんだよ!馬鹿者!」と怒鳴られたのだ。僕は「はあ!?喚いてんじゃねえぞハゲ!」と心の中の不良が抵抗した。実際に顧問はハゲていた。しかし実際の顔は引きつって今にも泣きそうな顔をしていた。

 

それから僕は人と話す機会があるたびに「目を見て話さなきゃ怒鳴られる……」と思うようになり、義務感で目を合わして話していたが、義務に疲れて余計に目を合わせられなくなってしまった。するとどうだろう、瞬く間にコミュ力が落ちる落ちる。どうやら目を見て話すことは自信へと繋がっているらしい。僕のメンタルは底まで落ち、自信は完全にゼロと化した。気の利いたジョークなんて言えない。甘い口説き文句も言えない。出てくるワードはマイナスなことばかり。結果、自然と人は離れていく。同時に人と接する機会が極端に減る。そうなると完全に人が怖くなり、会話すら困難になる。コミュ力は目を合わせることから始まる。

 

2.電話が恐ろしい

これは過去のトラウマが原因であることが分かっている。高校時代、僕は予備校に通わず、一人で受験勉強していた。中学時代に塾に通ってくせに大失敗したので、親に迷惑はかけられないと思い、一人で勉強することを選んだのだ。地獄への誘いは一本の電話から始まった。その電話が来る前は、電話に対してさほど恐怖心を抱いていなかった。顔が見えていない相手だから気が楽だったのだ。

 

その電話は、受験勉強を通信学習のような宣伝の電話だった。この手の電話はしょっちゅう来ていた。来るたびに断っていたので慣れっこだった。僕はいつものように断ろうといつも決めていた台詞を言い電話を切ろうとしたとき、「ちょっと待って!」と相手が言ったのである。ちょっと待ってあげた。するとまくし立てるように「一人で受験なんて無理」「ウチならどこにも受かる」「正直君頭悪いでしょ。今すぐ君の家に行って話をさせて」と言ってきたのである。僕は頭の中が「え?え?え?」と追いついていなく、ひたすら「はい」を連呼していた。そのため、名前すら知らない通信学習の業者が家に来ることになったのだ。

 

ここまで来たら断れない。僕をせめてもの抵抗で、親に電話を代わった。さすがは親だった。うまく相手をいなして話はチャラになった。僕は一安心したが、親からはこっぴどく叱られた。明らかに悪いのは僕の弱みにつけ込んで売り込もうとする業者だ。且つ僕はまだぺーぺーの高校生だ。そんな大人の世界なんて分かるわけがない。僕はそれから電話に対して恐怖心を抱くようになった。ほとんどの電話が悪い人ではないとは分かっているが、怖いのである。電話に出ることは極端に控えるようになったのだ。

 

美容院の予約をするのも歯医者の予約をするのも、マニュアルを最低は一週間かけて作成し、頭にたたき込んでシミュレーションをしないと電話ができない。もちろん自然な会話ができないからちぐはぐになる。コミュ力という言葉がやけに遠のいた。

 

3.世間話ができない

世間話なんて無理ゲーである。美容院での会話なんてどうすればいいのか分からない。この前は「眼鏡かけてますか?」と聞かれ「家でだけですけどね」と訳の分からない返答をしてしまったのだ。相手の美容師の顔には「?」という言葉が浮かんでいた。会話することに精一杯でコンテクストが理解できず、「はい」すら言えなくなってしまう。

 

「天気がいいですね」というワードはコミュ障を殺す究極の兵器だと思う。まず天気がいいからなんなのか。こちらも「天気がいいですね」と答えればいいのだろうか。デモそれだとオウムみたいで気持ちが悪いだろう。では、「はい、一点の曇りもない素晴らしい天気で、すがすがしい気分になりますね。さわやかだなあ!」と言えばいいのだろうか。まず無理な話である。「はい」で終わるのも気持ちが悪い。そんなことを短い時間に考えるから頭がパンクして訳の分からないことを言ってしまうのだろう。

 

そしてうまく会話ができなかった後の一人反省会が虚しい。「ああ言えば良かった」と後悔しても意味がない。これは自分でも気持ちが悪いと思うのだが、僕がぼそっと言ったことがウケた時、表情には出さないが心の中は笑顔がはじけているのである。一人反省会で、ウケた台詞をぶつぶつ独り言で言うのである。最高に気持ちが悪い。

 

コミュ力が最底辺の人間の一部を覗き込んで、どうでしたか。これは多くの人には理解できないことだと思う。どうも自分がかわいいのか一歩踏み出せないでいる。ここから踏み出せる方法があるのならば、どうか教えてください。

清水富美加の出家をうけて、ファンで居続けることの難しさを実感した

前回のエントリーを書いた後、僕は「ぶっちゃけ大丈夫っしょ!」とちょっと前の渋谷系の軽いノリだった。「出家で事務所とトラブっても芸能界引退はねえ(笑)大げさすぎワロタwww」と、楽観視してコーヒーを2杯ほど飲んだ。ネスプレッソのヴァニリオは、バニラ風味の飲みやすいコーヒーだ。何杯でもイケる。僕は、さて3杯目でもいっちゃおうかなと、スマホを見ながらネスプレッソマシーンへと向かった。スマホで見るものがなく惰性でいつものようにYahoo!ニュースを開いた。そしてとある記事が目に付いた。

 

清水富美加 「神のために生きたい」 直筆コメント全文

 

というものだった。僕は思わず左手に持っていたコーヒーカップを落としそうになった。「神のために生きたい……?」「幸福の科学に出家しました……?」おいおいどうなっちゃってるわけ? 芸能界引退が実現しちゃったじゃんよ。もうコスモのCMもニベアのCMもミタゾノもなくなっちゃうってこと? 脳が追いつかない現象は初めてに近い。出家宣言のコメントも、ほとんど覚えていない。コーヒーカップを持ちながら呆然と立ち尽くしていると、あるひとつの考えが脳を巡った。

 

僕はふみかすのファンで居続けられるのか?

 

ふみかすのファンである僕は、本格的にどうしたらいいのだろうか。清水富美加という存在が消えたわけではない。しかし、僕が見ていたふみかすは消えてしまう。圧倒的演技力でファンを魅了していたふみかすが消える。正直あまり悪口とか言いたくないが、ふみかすと同年代の役者は鼻クソの集まりみたいなもので、ふみかすの足下にも及ばないカスばかり。大げさな演技も自然な演技もお手の物だったふみかすがいなくなってしまうのは大きなダメージだ。ふみかすはツイッターで「真実を語る」とツイートしていた。僕はその「真実」を受け入れることができるのだろうか。

 

真実は時として残酷な運命へと導く。子どもの頃、世の中の現象にはいつも目をキラキラさせていた。それは知識がないのと、疑うことを知らなかったからだ。成長していく過程で知識は増え思考力は自然と付いてくる。そうして現実を知る。サンタはいないしカメハメ波も撃てない。ぼくのかんがえたさいきょうのましーんは実現も存在もしない。気付けば世の中に不信感を抱いてばかりになる。その中で人は信じられるものを必死で探す。それは趣味であったり人間関係であったり、ペットであったり。その信じていたものから一方的に離されたとき、人はどうなるのだろうか。おそらく不信感は余計募り、対象に破滅的な思考を抱くことになるだろう。

 

僕はできればファンで居続けたい。しかし今後それはあっという間に崩れ去ることになるかもしれないし、もっとファンで居続けたいと思うかもしれない。『結婚できない男』の一話目に、建築家になった理由を尋ねられた桑野が「神のお告げがありましてね」と飄々と言うが、あんな感じで言われたら、なんだか安心する気がする。

 

最後に、大川隆砲は最強の攻撃力を持った降霊術だなあと思った。